特級畑 リシュブール の真上に位置する 偉大なる1級畑 クロ・パラントゥ は、アンリ・ジャイエの功績とともに伝説的な賞賛を獲得しています。 そもそも、クロ・パラントゥの歴史は古く 1827年の地図には、今と同じ場所にその名が記されていますが、当時は2級扱いの畑で今のように注目されるようなことはありませんでした。
クロ・パラントゥ 所有者の変遷
1920年には、クロパラントゥは、カミュゼやフェヴレイなど4人のオーナーが分割して所有しているという記録があり、畑のサイズも今より若干大きい 1.15ヘクタールだったようですが、依然、人々から注目を集めるような特別な畑ではありませんでした。その後も第二次大戦が終わるまで、フィロキセラにやられてワイン用葡萄は植えられなくなり、アーティーチョークなどの農作物を育てていました。
しかし、1950年、アンリ・ジャイエはクロ・パラントゥが備える潜在的なテロワールを見出し、オーナーたちから譲り受けながら自分の区画を拡大してきました。1951年を皮切りに、20年の歳月をかけて 0.7ヘクタールの区画を自らのものとします。 これはクロ・パラントゥの70%を所有することとなります。そして、残りの 約0.3ヘクタールをカミュゼ一族が所有するという現在のスタイルとなったのは 1970年のことです。
アンリ・ジャイエ と クロ・パラントゥ
現在、カミュゼ一族が標高の高い区画を、ジャイエの一族(エマニュエル・ルジェ)が、リシュブールに隣接する畑をそれぞれ所有しています。
諸説ありますが、アンリ・ジャイエは自らクロ・パラントゥの畑を所有しはじめた 1950年代から1987年までの間、実質的に全てのクロ・パラントゥの畑を管理していた、と言われており、それはメオ・カミュゼのラベルでだされるワインも 1987年までそうだったと言われています。
1976年まで、アンリ・ジャイエは殆どのワインをネゴシアンに卸しており、Caves Dessilly や Alexis Lichine のワインのエチケットには ワイン製造者として アンリ・ジャイエ の名が記されています。
さらに、クロ・パラントゥについても、1978年ヴィテージまで、単体として世にリリースされることはなかったそうで、今思うとなんて勿体無い!と思ってしまいますが、当時は村名のヴォーヌ・ロマネ として販売されていたようです。
1978年から1984年までの間、アンリ・ジャイエはクロ・パラントゥのワインを 年間3000〜4000本ほど生産していました。
アンリ・ジャイエ と、 エマニュエル・ルジェ、メオ・カミュゼ。
それぞれの クロ・パラントゥ
一方、メオ・カミュゼはその間クロ・パラントゥを自らのラベルで世に出すことはしておらず、1985年にようやく、自らの名前でクロ・パラントゥを出すようになりました。 1985年までの間、メオ・カミュゼが所有する畑の葡萄が、アンリ・ジャイエのものとともに醸造されていたのか、それとも、ネゴシアンに販売されていたのかは定かではありません。
1984〜1988年にかけては、アンリ・ジャイエが醸造したワインをメオ・カミュゼでもボトリングしていました。両者の違いは、ジャイエのクロ・パラントゥがノンフィルターであるのに対して、カミュゼのはフィルターにかけていたことです。
1989年、ジャン・ニコラがメオ・カミュゼの醸造をジャイエから引き継ぎましたが、実際はまだアドバイザーとしてカミュゼのワインつくりに携わっていたようです。 そして、確かではありませんが、1996年からカミュゼのワインのスタイルが変わったことから、このヴィンテージからジャイエは完全にカミュゼのワインから手をひいたのではないかと言われています。
エマニュエル・ルジェも自らのラベルで1989年よりクロ・パラントゥをリリースし始めています。
1996年にアンリ・ジャイエは引退しましたが、2001年までの間、ごく少量ですが、0.25ヘクタールの畑から自らのワインを造り続けていました。 その間、ルジェは 0.43ヘクタールのクロ・パラントゥを作っています。
2002年ヴィンテージからは、エマニュエル・ルジェ(3000〜3500本)と、メオ・カミュゼ(1000本)の、二つのラベルで クロ・パラントゥ は生産されています。
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